尖った山々がいくつもある。山には|濃霧《のうむ》がたちこめ、雲のように広がっていた。
空は海のように蒼く、太陽が|燦々《さんさん》と地上を照らす。雲はないものの、どこまでも続いていた。
ふと、遠くの空から|鷹《たか》が鳴きながら飛んでくる。鷹は霧を物ともせず、地上目がけて落下した。
そんな鷹の眼には美しく|煌《きら》めく運河が見える。
|鷹《たか》は何を考えるでもなく、運河の上流へと飛んでいった。しばらくすると鷹の視界に大きな街が映る。
街のあちこちに河があり、小舟が置かれていた。人はそれに乗り、河をのんびりと進んでいく。
多くの建物は|朱《あか》い屋根、柱になっている。朱い|提灯《ちょうちん》を何本も飾り、それらが風によって時おり揺れていた。
左右の家屋の間にある道は細いものから太い場所まであり、常に人々で埋め尽くされている。
「……ピュイ?」
|鷹《たか》は適当な屋根の上に乗り、かわいらしく小首を傾げた。
せわしなく動く人たちは、桃や白などの色を使った|漢服《かんふく》を着ている。青空のような色もあった。けれど|宵闇《よいやみ》のような暗い色を着ている者は一人もいない。
|鷹《たか》は人を観察することに飽きたのか、翼を空に向けて飛び去った。
しばらく飛んでいると、茶の葉をつけた木々が|鬱蒼《うっそう》と生い|茂《しげ》る山を見つける。一番高い木に足を休ませ、首をかしげては軽く鳴いた。|瞳孔《どうこう》を細め、くるくると首を動かす。
ふと、山の中に、モゾモゾと動く何かがいた。それを|眼《め》に映し、じっと見つめた。
|鷹《たか》が休んでいるのは|静寂《せいじゃく》が走る場所。されど、おぞましいほどの|陰《いん》の気に満ちている山である。
|鷹《たか》が降り立った山は、夔山《きざん》と言われていた。|夔《き》を崇め、神を信ずる者が恐れる|夔山《きざん》と呼ばれている山だ。
獣も、人ならざる者ですら生きていけぬ、不気味な山である。木々は水分を喪い、葉は色落ちしてしまっていた。土はカラカラになり、地面には何かの骨が点々と転がっている。
その骨を、黄土色の肌をした人のような何かが貪っていた。それは一体や二体ではなく、十数体に及ぶ。ヨダレを垂らし、無造作に|嘱《しょく》している。
両目は白く、瞳孔は存在しておらず。
『…………』
一言も発することなく、ただ本能の|赴《おもむ》くままに動いているようだ。
そのとき、|土気色《つちけいろ》の何かは恐ろしいまでの生臭い息を吐く。両手を胸まで持ってきて、ピンっと前へ伸ばした。瞬間、ドスンドスンと音をたてて飛びはねる。
色素を失った葉をもつ枝に留まっていた|鷹《たか》は驚き、鳴きながら飛び去っていく。鳴き声に紛れた羽音を惜しげもなく|晒《さら》け出しては、空へと逃げていった。
土気色のそれは何度も飛びはねながら、前へと進む。|邪魔《じゃま》な雑草に行く手を|阻《はば》まれようとも、大木にぶつかろうとも、表情すら変えずに飛びはね続けていた。
|寸刻《すんこく》、前後左右の草むらから同じ顔色の何かが現れる。それは一体や二体ではない。数えるのも|億劫《おっくう》なほど、おびただしい数だ。
そんな者たちは|皆《みな》、一様に同じ方向へと向かった──
□ □ □ ■ ■ ■
|陰《いん》の気に満ちた山の|麓《ふもと》には、ひとつの小さな村がある。
|寂《さび》れてはいないが、|繁栄《はんえい》もしていない。村の中にあるのは畑や田んぼ、牛小屋ばかりだ。周囲は山に囲まれ、空からは雪が降っている。とても静かでのどか。そんな印象の、何の|変哲《へんてつ》もない村だった。
そんな村は今、かつてないほどの恐怖に|襲《おそ》われている。村の四方、山を背にした側には火の|粉《こ》が舞っていた。牛小屋辺りからは動物の鳴き声に混じり、ドスンドスンという奇妙な音が止まることなく|響《ひび》き続けている。
|鶏《にわとり》が羽毛を|撒《まき》き散らしながら村中を|駆《か》け、我が物顔で走り回っていた。
こんな状態であるにも関わらず、村人はいっこうに姿を見せない。
そんな村の入り口近くでは|旗《はた》を|掲《かか》げた馬車が数台、停まっていた。旗には[黄]と書かれている。
「──こりゃあ、|酷《ひで》えな」
先頭の馬車から言葉とともに降りてきたのは、中肉中背の若い男だ。
布で髪の毛を、頭の|天辺《てっぺん》でひとまとめにしている。顔立ちは平凡そのもので、何の|特徴《とくちょう》もなかった。あるとすれば上は黄色、下にいくにつれて白くなる|漸層《グラデーション》の|漢服《かんふく》か。
そう言うしかないほどに、目立つ部分は何もない男だった。
「おい、お前ら。わかってるな? |殭屍《キョンシー》の|殲滅《せんめつ》だぞ!?」
彼がそう告げると、他の馬車から同じ服装の者たちが数名現れる。彼らは一様に剣を持ち、|頷《うなず》いていた。
瞬間、ドスンドスンという音の正体となる者たちが、村のあちこちから顔を出す。
土気色の顔、黒目のない瞳、そして肌のあちこちに浮かぶ血管など。とても人間とは思えないような姿だった。
この者たちは|殭屍《キョンシー》と呼ばれる存在で、生きた人間ではない。動く死者だ。
それらは数秒もたたぬうちに村の入り口付近にどんどん集まり、黄色の漢服の者たちが動き出す前に地をたたく。
ドスン、ドスン……
両腕を前に浮かせ、飛びはねながら、馬車の周辺にいる人間たちへと近づいていった。
「|怯《ひる》むな! やつらを殺せー!」
何の特徴もない男が誰よりも先に地を|蹴《け》る。
後ろにいた者たちは彼を追いかけるように、剣を手に立ち向かっていった。
ある者は|殭屍《キョンシー》と呼ばれた存在を|容赦《ようしゃ》なく剣で|斬《き》り、|血飛沫《ちしぶき》を浴びる。またある者は|殭屍《キョンシー》を頭ごと|切断《せつだん》し、動きそのものを封じた。
当然|殭屍《キョンシー》とて、黙って殺られてはいない。|隙《すき》をついて相手の|喉《のど》や腕といった、肌が|露出《ろしゅつ》しているところを|噛《か》んでいった。噛まれた者たちは苦しみながら剣を落とし、|瞬《またた》く間に|殭屍《キョンシー》のようになっていく。
それらを繰り返した結果、|徐々《じょじょ》に人間側の人員が減ってしまっていた。
「……ちっ! 役にたたねー連中だな」
中肉中背の特徴すら見当たらない男を含み、数人だけとなってしまう。彼らは互いに背をくっつけ合い、|死角《しかく》を消しながら剣で|応戦《おうせん》した。
「こいつら、どんどん増えてやがる……って、おい! あの|餓鬼《ガキ》はどうした!?」
伸びてくる|殭屍《キョンシー》の腕を|斬《き》り、周囲を見渡す。けれど目的の者の姿は見当たらぬようで、彼は舌打ちをした。
「こんなときに、どこ行きやがった!? ……っ!」
瞬間、両目を|瞑《つぶ》ってしまうほどの光が、村の奥地から放たれる。けれどそれは一瞬のことだったようだ。彼はすぐ様目を開け、我先にと|殭屍《キョンシー》を|祓《はら》うために剣を握りしめる。
ふと、足元に|違和感《いわかん》を覚えた。何かがあたった。そんな気がして地を見下ろす。
そこには、|深紅《しんく》色の結晶の|塊《かたまり》が転がっていた。しかも、ひとつやふたつではない。
「……これはまさか、|血晶石《けっしょうせき》か!?」
拾おうと腰を少し曲げたとき、馬車を引くための馬たちが一斉に鳴き出した。何事かと見てみれば、村の入り口には|新手《あらて》の|殭屍《キョンシー》たちが待ち構えている。
なぜと考える暇もなく、彼らは|襲《おそ》いくる|殭屍《キョンシー》の|群《む》れを|薙《な》ぎ倒していった。
村の入り口付近で|殭屍《キョンシー》たちと|応戦《おうせん》している者たち。 そんな彼らから少し離れた場所で、同じ服装をした者がひとりだけ、別行動をとっていた。 ボサボサの黒髪は地につくほどに長く、|白髪《しらが》が混じっている。長く伸びた前髪は目を隠し、どんな瞳なのかを|伺《うかが》い知ることはできなかった。 服装にいたっては、入り口付近で戦っている者たちと同じとは思えぬほどにボロボロである。それでも気にする様子はなく、そっと|壁《かべ》の|隙間《すきま》から外をのぞいていた。 「お、お姉ちゃん」 そんな者の背後から、小さな女の子に声をかけられる。振り向けばそこには女の子を含む数人がおり、彼らは|怯《おび》えるように身をよせ合っていた。 女の子が短い手足を、ボサボサな髪の者へと伸ばす。「大丈夫だよ。彼らは仮にも仙人様たちなんだ。君たちを助けてくれるはずだ」 ボサボサな髪の者の声は中性的だった。 よく見れば身長はそれほど高くはない。小柄で線の細い子供といったところか。それでも、性別まではわからなかった。 「う、うん……お姉ちゃん、わたしこわい」「……うん、僕も怖い。でも大丈夫だよ」 そっと少女の頭を|撫《な》でながら、花の|簪《かんざし》を贈る。それは黄色い|山茶花《さざんか》で、かわいらしい少女にとてもよく似合っていた。 少女は|驚《おどろ》きながら|簪《かんざし》に触れる。「僕にできるのは、これぐらいだから」 どこから持ってきたのかもわからぬ|簪《かんざし》であったが、少女はたいそう喜んでいた。泣きそうだった表情には笑顔が浮かび、嬉しそうに大人たちへ見せていく。「ありがとうお姉ちゃん。わたし、|雨桐《ユートン》っていうの。お姉ちゃんは?」 小柄な人物は男か、それとも女か。どちらかもわからぬ|見目《みめ》であったが、|遠慮《えんりょ》なく小柄な者を女性として扱った。 ふいに、小柄な人物は自身の前髪を触る。するとそこからまつ毛の長い、大きな瞳が|零《こぼ》れた。「わぁー! お姉ちゃん、すっごくきれいな人だぁー」 これには少女だけでなく、この場にいた誰もが目を見開く。「……よく、わからないや。だけど、僕は男だよ」 「そう、なの? じゃあ、お兄ちゃん?」「うん」 小柄な人物は自分の見た目に|無頓着《むとんち
|禿《とく》王朝設立から二百年、領土の各地では人知を越える現象が起きていた。それに対抗するため、才能ある者たちが修行を重ねる場所が三ヶ所|設《もう》けられる。 その内の一つが町の中にあった。【|澤善教《アイゼンキョウ》】という町で、とてものどかで平和な場所である。 そんな町は気高き山に囲まれ、他者からの侵入を|阻《はば》むようにできていた──「──いらっしゃい。できたての|包子《パオズ》あるよー!」 青空に雲がふわふわと浮き、太陽が眩しく地上を照らす日中。町中は人々の活気で賑わっていた。 湯気が暖かさを感じる包子、食欲をそそるような肉汁が|滴《したた》る餃子など。野菜や肉の匂いが鼻をくすぐり、お腹を鳴らす者もいた。 数多くの出店が町の中心を陣取り、人々はそこを訪れる。そんななか、町の東側にある朱色の屋根の建物の前にも客が列をなしていた。建物には【|龍麗亭《りゅうれいてい》】と、書かれている。 店の前には白い|漢服《かんふく》を着た女性が何人かおり、客たちに献立表を見せていた。「二名のお客様、どうぞー……あら?」 女性店員が客を捌いていく最中、店の前を一つの集団が横切る。 それは黒い|漢服《かんふく》を着た男性たちだ。皆が一様に、首に黒い勾玉をかけている。髪型はそれぞれ違うものの、服と勾玉だけは同じだった。 そんな集団の一番後ろ……彼らから数歩後ろに、一人の男性がいる。男性は集団の中でも一際目立つほどに背が高かった。長い黒髪を三つ編みにした姿、そして何よりも、整った美しい見目が人目を|惹《ひ》く。「……アイヤー。一番後ろにいる男の人、とってもいい男ね」 女性店員は思わず声にしてしまった。すると男性は彼女を見、横目に笑顔を浮かべる。 女性店員は顔を真っ赤にさせながら、去っていく彼へと「今度来てねー。割引するからー!」と、気持ちのよい楽しげな声をあげた。瞬間、同じ店員の女性に腕を掴まれてしまう。「ちょっとあんた!」 腕を掴んだ店員は慌てて彼女を店の中へと引っぱった。「あの人たちの事、知らないわけ!?」「先輩、知ってるんですか?」 引っぱられた方はきょとんとしている。先輩と呼ばれた店員はため息をつく。 「あの人たちは【|黒族《こくぞく》】って云う、三大|仙族《せんぞく》の一つよ。あの黒い衣と、勾玉をつけているのが特徴よ」
小柄な人物の視界を、黒く|艶《あざ》やかな髪が|覆《おお》った。糸のように細く、宝石のように輝く。そんな黒髪だ。 そこには見慣れぬ美しい男が立っている。「…………っ!?」 小柄な人物は息を飲む。すると突然ふわっと、体が浮いた。いったい何が起きたんだろうと両目を|凝《こ》らす。やがて横抱きにされているということを知り、慌てた。「え!? ……あ、あの!?」「大丈夫。君は、すぐにここから出られるから」 風に|靡《なび》く黒髪が、小柄な人物の頬をくすぐった。耳には彼の低く、それでいて心地よい声が届く。 小柄な人物は男の美しい横顔を見て、両目を丸くした。「さあ、君の借り家に向かおうか」「……え?」 男は小柄な人物を軽々と持ち上げながら、うさぎのように屋根を伝っていく。ひょいひょいとした身軽さで、人一人を両手に抱えているのが嘘のように軽く動いた。 ──借り家って……何で、あそこが僕の家じゃないってことを知ってるの? それに…… これはまるで誘拐。そう言おうとしたが、なぜか男の横顔から目を離すことができなかった。 落ちないようにギュッと、男へとしがみつく。「──うわあ、凄い!」 小柄な人物の目には町の|彩《いろど》りが映っていた。 道を埋めつくす人々の華やかな声。|朱《しゅ》色の屋根の大きな建物。町の中心にある小川の|畔《ほとり》で売られているたくさんの花たち。 空はいつもより近く、太陽がより大きく見えた。「気に入ってくれたみたいでよかった」 小柄な人物を横抱きにしたまま屋根の上を飛ぶ彼は、不敵に片口を上げる。しかし数秒もたたぬ内に男からは笑みが消えてしまった。足を止め、無言でとある家屋を見下ろす。 そこは華やぐ街の中でも、一際きらびやかな建物だった。|朱《あか》く塗られた美しい屋根と柱、それに負けぬほどに大きな建物である。日中だというのに建物のあちこちに飾られている|提灯《ちょうちん》には、明かりが灯っていた。 出入りをする人々は女性ばかりで、皆が美しく着飾っている。建物には[|梅萌楼閣《ばいめいろうかく》]と書かれた看板があった。 男は小柄な人物を抱えたまま、音もなく屋根から降りる。建物の門の前に立ち、小柄な人物をゆっくりと降ろした。「……着いたね」 力強くはないが、|脆《もろ》くはない。そんな声が男から発せられる。
|姐姐《ねえさん》の後ろに隠れた|華 閻李《ホゥア イェンリー》は、建物から出てくる者を見た。 そこにいたのは一人の男である。彼は先ほど飛び出してきた|特徴《とくちょう》のない男とは違い、どこか|威厳《いげん》を放っていた。 男は|漸層《グラデーション》の入った黄色い|漢服《かんふく》に身を包んでいる。 黒髪を頭の上で一つ縛りし、あまった髪は揺れていた。 年齢は四十代半ば。目鼻立ちは整ってはいるものの、にこりともしない。そのせいで、作り物めいた雰囲気を生んでいた。 身長は百八十センチほどで、中肉中背である。伸ばされた背筋にきっちりと服を着こなすことから、男の真面目さが窺えた。 そんな男は、|眼前《がんぜん》で叫び続けている者を睨む。「──若、私はあなたの弟子でもなければ、※|家僕《かぼく》ですらありません」 どれだけ|威嚇《いかく》されようとも、権力を振りかざされようとも、この男性はひれ伏すことはないのだろう。その証拠に、転がっている男へは威圧を含む視線を浴びせていた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は、二人の男たちのやり取りを見て呆けてしまう。けれどすぐに警戒心を唇に乗せ、彼らを|凝望《ぎょうぼう》した。 ──あの|屑《くず》男はいつものことだけど。今日はどうして、この人が来てるんだろう? 地にひれ伏している者ではなく、背筋の伸びた中年男性について疑問を浮かべる。視線を子供へとやれば、中年男性は彼へ向かって|会釈《えしゃく》をした。 そして|対峙《たいじ》しているもう一人の男を無理やり起き上がらせ、建物の中へと入っていってしまう。 目まぐるしく流れる彼らの行動に、|華 閻李《ホゥア イェンリー》たちは目を丸くした。「……ねえ|閻李《イェンリー》、前から聞きたかったんだけど。あんたをつけ回してる男と今の素敵な方って、どんな人たちなの?」 |姐姐《ねえさん》が、それとなく|尋《たず》ねる。彼よりも少しだけ背の高い彼女は、風に|靡《なび》く髪を押さえていた。 ふと、隠れていた|華 閻李《ホゥア イェンリー》が前に|躍《おど》り出る。幼さの残る見た目を裏切る白髪混じりの髪を、頭の|天辺《てっぺん》で軽く結い上げた。ひとつ|縛《しば》りになった髪は|尻尾《しっぽ》のように、ゆらり、ゆらりと揺れる。 |姐姐《ねえさん》と呼び慕う女性以外
太陽が陰り、雲に隠されていく。晴れてはいるものの、どこか不安になる。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》はその不安を言葉にはせず、男と向かい合っていた。 近くには気を失っている|黄 沐阳《コウ ムーヤン》がいる。けれどその場にいる誰一人として、彼を起こそうとはしなかった。 この事態を引き起こしたともされる|爛 春犂《ばく しゅんれい》はため息をついている。 それでも起こさない方が静かだと、二人は無視を決めこんでいた。 部屋の中に新しい机を用意し、その上に小ぶりの|茶杯《ちゃはい》をふたつ置く。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は、ゆっくりと茶杯へと緑茶を注いでいった。真向かいに座る|爛 春犂《ばく しゅんれい》が飲んだのを確認し、本題へと入る。「──|爛《ばく》先生、先ほど言った事は本当なんですか?」 |対峙《たいじ》している男は、彼が前までいた所の先生を務めていた。今もそれは健在で、側で伸びている|黄 沐阳《コウ ムーヤン》の師に近い存在でもある。けれど彼と伸びている男は相性が悪いようで、顔を合わせる度に|喧嘩《けんか》になっていたのだ。 ──まあ僕も|黄 沐阳《コウ ムーヤン》は嫌いではあるけどさ。|爛《ばく》先生みたいに、明らかな敵意は見せたりはしないかな。 これには、から笑いしか出なかった。それでも今しなくてはならないことは何だったかと、大きく深呼吸して気持ちを切り替える。「それで先生、厄介な事とは何でしょう?」「……お前は先月……|黄家《こうけ》を出る前、こやつと共に行った場所を覚えておるか?」 |爛 春犂《ばく しゅんれい》は|黄 沐阳《コウ ムーヤン》を指差した。 「あ、はい。確か…&h
開けられた窓から、たくさんの花が部屋の中へと入ってくる。|踊《おどり》りながら|侵入《しんにゅう》するのは|椿《つばき》や|牡丹《ぼたん》、|山茶花《さざんか》など。町中で売られている花だった。 まるで|華 閻李《ホゥア イェンリー》を護るかのように囲う。それはとても幻想的で、子供を|儚《はかな》げに繋ぎ止めていた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》がそれを手に取れば、柔らかで甘い|蜜《みつ》の香りがした。花びらの表面を|撫《な》で、|眼前《がんぜん》にいる|爛 春犂《ばく しゅんれい》へと視線を送る。「先生、そもそも|殭屍《キョンシー》とは何なのでしょう?」 最初は遺体を運ぶ為に|用《もち》いられていた。しかしそれは、何の力もない|直人《ただびと》が|考案《こうあん》したことである。力がないからこそ物理的な物で運ぶ。知恵を|絞《しぼ》って作り出した案、それが|殭屍《キョンシー》の始まりとされていた。 彼は、そこから|殭屍《キョンシー》が生まれたのではないかと|推測《すいそく》する。 けれど|爛 春犂《ばく しゅんれい》は首を縦にふるわけでもなければ、横にすら動かさなかった。ふうーと口を閉じて鼻で息をする。「|直人《ただびと》が始めた事なのは間違いない。しかしそれが|殭屍《キョンシー》というわけではない。死者ではあるが、体という器があっても魂なくては動かぬ者。|殭屍《キョンシー》とは似て非なるものと言われている」 では、亡くなった者がどうやって|殭屍《キョンシー》になるのか。彼は、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の答えを待っているかのようにまっ直ぐ見つめてきた。 子供は、彼の意図する部分を|捉《とら》える。腰をあげて窓|枠《わく》に片肘をつかせ、手のひらの上に|顎《あご》を乗せた。 背中越しに座っている彼へ振り向くことなく、花が舞い続ける景色を|眺《なが》める。 前髪が風に遊
|爛 春犂《ばく しゅんれい》が帰った後、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は|妓楼《ぎろう》の裏手へと向かう。そこは表の華やかさとは裏腹に、雑草が生い茂るだけの荒れ地だった。 建物の壁に背をつけ、服の|口袋《ポケット》から白い何かを取り出す。それは薄汚れた|勾玉《まがたま》だ。それでも気にすることなく、|勾玉《まがたま》を優しく撫でる。 すると、周囲にたくさんの花が落ちてきた。|山茶花《さざんか》や|睡蓮《すいれん》などが、美しい花びらを|伴《ともな》って彼の全身を包み始めたのだ。 彼の姿が見えなくなるまで深く、|濃《こ》い|蜜《みつ》の香りに|包容《ほうよう》される。 しばらくするとそれは|収《おさ》まり、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は再び姿を現した。 けれど花に包まれる前の彼とは違っていた。 幼さを残す顔立ちはそのままだが、|白髪《しらが》の混じっていた黒髪は色素をなくしている。一見すると白のよう。けれど太陽の光が当たった瞬間、美しい|白金《プラチナ》の輝きを放つ。 足元まで届きそうなほどに長い髪は、|蜘蛛《くも》の糸のように細かった。 彼は慣れた様子で髪を払いのけ、落ちている|睡蓮《すいれん》を拾った。それを右の手のひらに乗せ、左手で素早く|印《いん》を結んでいく。「──花びらは耳、|蜜《みつ》は息。花粉は|蜂《はち》を誘い、|蝶《ちょう》を|誘惑《ゆうわく》する。花の役目は我を導くこと」 |空《くう》に描くは術。先ほど|華 閻李《ホゥア イェンリー》を包んでいた花が、今度は彼の力に囲まれる番だった。「|我《われ》、|先々《せんせん》の主なり。そして|我《わ》が声に答えよ。目を開き、全てを知らせよ!」 彼の中性的な|見目《みめ》に負けぬのは、男性にも女性にも聞こえる声である。どちらともとれる|声音《こわね》は花たちを美しく踊らせた。 まるでそれは妓女のよう。花の正体が女性ならば、世の男たちは虜になっていただろう。 そう思えるほどに美しく、丁寧に踊り続ける花は意思を持つかのように、とある場所へと向かった。 町を出て、河の上流へと進む。途中にあるつり橋では、男たちが魚釣りをしていた。 そこからさらに山の方へと向かう。次第に霧が立ちこめ、どんどん濃くなっていった。それでも花たちは風向きに逆らいながら飛び続ける。 空中を散歩す
──何だろうう。すごく懐かしい香りがする。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は重たい|瞼《まぶた》を無理やり開けた。ズキズキと痛む脳を働かせる。ふと、首から上だけが浮いているという感覚に見舞われた。 なぜだろうかと、視線だけを動かす。「──あ、気がついたかい?」 思いもよらぬ声が頭上から聞こえた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は驚きのあまり、|目眩《めまい》を忘れて起き上がってしまう。当然のように視界がぐらつき、ふらりと横に倒れてしまった。「おっと。急に動いちゃダメだよ」 声の主は|華 閻李《ホゥア イェンリー》の体を支える。 ──え? だ、誰? な、何で僕はこの人の|膝《ひざ》で寝てたの? あれ? でもこの人って…… 恥ずかしさと動揺を隠し、声の主の顔を見た。 |宵闇《よいやみ》のように長い黒髪を三つ編みした男だ。女性の黄色い声が聞こえそうなほどに目鼻立ちは整っている。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》とは違い、健康的な肌色をしていた。体格はよく、服に隠されていようとも、大きな肩幅から見てとれる。「……えっと、町で会ったあの人?」 突然声をかけてきて、|人攫《ひとさら》い顔負けに屋根上の散歩を|促《うなが》した。そしてあっという間に姿を消し、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の心に少しだけ疑問を残した男である。 次第に体を|縛《しば》っていた|目眩《めまい》がなくなっていく。|眼前《がんぜん》の男に手を貸してもらいながゆっくりと起き上がった。「ふふ、うん。そうだよ。あの時の散歩はどうだった? 私は、君と初|逢瀬《おうせ》出来て幸せいっぱいだったけどね」 美しい見目に見合わない言動が飛び交う。|華 閻李《ホゥア イェンリー》の小さな手を優しく|撫《な》でた。瞳をとろけさせながら微笑み、子供を壊れ物のように扱った。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は彼の放った言葉に小首を傾げる。銀の髪はさらりと流れ、大きな目とともに男を|直視《ちょくし》した。 すると男はうっと言葉を詰まらせ、下を向いてしまう。|華 閻李《ホゥア イェンリー》がどうしたのと尋ねながら男の顔をのぞけば、彼は視線を|逸《そ》らした。そして天を仰ぎ見、子供の両肩を軽く叩く。 「これぞ、|至福《しふく》の時!」 男の頬には嬉し涙が伝っていた。 しかし|華
|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は重たい口を開いていく。 |友中関《ゆうちゅうかん》は|黒《くろ》と|黄《き》、互いの領土の中間にある。そこで働く兵たちはふたつの勢力から選ばれた者たちだった。どちらか一方が多くならぬよう、均等に両族から|派遣《はけん》させる。それが、この國が始まりし頃からの決まりごとであった。 しかし、互いの勢力がそれで手を取り合うというわけではない。度々いざこざが起き、そのたびに|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》や|爛 春犂《ばく しゅんれい》などが出向いて|仲裁《ちゅうさい》していた。「……うん? 何であんたや、あの|爛 春犂《ばく しゅんれい》なんだ? |黄 茗泽《コウ ミャンゼァ》とか、親玉が出向く方が早くない?」 腰かけられそうなところへ適当に座り、|全 思風《チュアン スーファン》は三つ編みを後ろへとはたく。穴が開くほどに|眼前《がんぜん》にいる男を|注視《ちゅうし》した。 |黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は|瓦礫《がれき》の上に座りながら、空を見上げる。いつの間にか灰を被った色になった雲と、遠くから聞こえてくる雷の音。それらにため息をつき、首を左右にふった。「いや、あの場所は互いの族で二番目に|偉《えら》い者が|視察《しさつ》しに行くという決まりになっていた。兄上はおろか、|黄《き》族の|長《おさ》である|黄 茗泽《コウ ミャンゼァ》ですら|関与《かんよ》してはならないとされているんだ」 |皮肉《ひにく》にも、昔作られた決まりごとが今回の事件を引き起こす切っかけにもなってしまう。そして|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》という男を暴走させる原因にもなってしまった。 男は両手を|太股《ふともも》の上に置き、これでもかというほどに彼を睨む。「……私を睨んだって、しょうがないじゃないか」 今にも殺しにかかる。そんな
|全 思風《チュアン スーファン》は剣を|鞘《さや》に収め、ふっと美しく|笑《え》む。 |眼前《がんぜん》にいるのは先ほどまで場を独占していた男、|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》だ。彼は苦虫を噛み潰したような表情をし、これでもかというほどに怒りを|顕《あらわ》にしている。「……な、んだ。何だこれはーー!?」 その場を支配していた直後、|焔《ほのお》が消化されていったからだ。 何の|前触《まえぶ》れもなく現れた|全 思風《チュアン スーファン》だけでも手に|負《お》えないというのに、上空から降る|蓮《はす》の花。その花から雨のように水滴が降り|注《そそ》いでいるからである。 花は|仄《ほの》かに甘い香りをさせながら|焔《ほのお》を消し去っていった。しばらくすると辺り一面に|焦《こ》げた匂いだけが充満し、|蓮《はす》の花は泡となって天へと昇っていく。「くそっ! どうなっている!? 貴様、何をしたーー!?」 まるで、腹から声をだしているかのような|怒号《どごう》だ。 大剣を強く握り、勢いをつけて地を|蹴《け》る。風のように|疾走《しっそう》し、剣で空を斬った。「|朱雀《すざく》の|焔《ほのお》を消せる者など、この世にありはしないはず!」 |全 思風《チュアン スーファン》を斬りつけようと、|空《くう》に|豪快《ごうかい》な一|閃《せん》を放つ。重みのある大剣が|瓦礫《がれき》を|削《けず》り、|蹴散《けち》らしていった。 しかし、それでも、|全 思風《チュアン スーファン》は何の|痛手《いたで》も負っていない。眠そうにあくびをしながら、右手で持つ剣で応戦した。 互いの剣がぶつかり合い、金属音が響く。「……ふわぁ。ねえ、まだ続けるのかい?」&nbs
町のあちこちは火の海になっていた。|避難《ひなん》民がいる河|沿《ぞ》いも、町の入り口や広場すら、|焔《ほのお》に|埋《う》もれてしまっている。 必死に火を消す兵たち、逃げ遅れて|瓦礫《がれき》の|下敷《したじ》きになっている市民など。町のいたるところでは|紅《くれない》色の|焔《ほのお》とともに、|阿鼻叫喚《あびきょうかん》が飛び交っていた。 そんな事態を引き起こしたのは、黒い|漢服《かんふく》を着た男である。 彼は|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》、|獅夕趙《シシーチャオ》というふたつ名を持つ男だ。 右手に大剣を、左手には|鳥籠《とりかご》を持っている。「俺は|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》。|黒《こく》族の|長《おさ》である|黒 虎静《ヘイ ハゥセィ》の弟だ。このたび|黄《き》族の連中が条約を破り、我が|黒族《こくぞく》の|領民《りょうみん》を、|友中関《ゆうちゅうかん》にて|虐殺《ぎゃくさつ》した!」 大柄な体格どおり、とても声が大きい。 |焔《ほのお》が火の|粉《こ》を飛ばす音すら、かき消えるほどだ。 怒りを|携《たずさ》えた瞳で、町の入り口を陣取っている。後ろに控えている兵たちを見ることなく、ただ、言いたいことだけを叫んだ。「──|友中関《ゆうちゅうかん》には俺の心の友、|雪 潮健《シュ チャオジェアン》がいた。しかし彼は|黄《き》族の罠にかかり、命を落としたのだ!」 大剣の先端を地面に刺し、|豪快《ごうかい》な|仁王立《におうだ》ちをする。片手で持つ|鳥籠《とりかご》を顔の前まで上げ、瞳を細めた。「|卑怯《ひきょう》者の|黄《き》族が町を支配するなど、|笑止千万《しょうしせんばん》! 俺の友、|雪 潮健《シュ チャオジェアン》の|怨《うら》みを受け取るがいい!」 彼の|声音《こわね》が合図となり、後ろ
狭い廊下に|襲《おそ》い来る灰色の|渦《うず》を目の前に、三人はそれぞれのやり方で|蹴散《けち》らしていった。 |全 思風《チュアン スーファン》は指先から黒い砂のようなものを出し、それを器用に動かす。|迫《せま》る灰の|渦《うず》を弾き、床へと|叩《たた》きつけていた。 |黄 沐阳《コウ ムーヤン》はそんな彼の腰にある剣を抜く。腰を大きく曲げ、|全 思風《チュアン スーファン》の腕下から剣を突き刺し、切り刻んでいった。 |前衛《ぜんえい》で戦うふたりの後ろでは、|華 閻李《ホゥア イェンリー》が花を意のままに|操《あやつ》る。ふたりが|捌《さば》き|損《そこ》ねた灰の|渦《うず》。これが彼ら目がけて|突貫《とっかん》する。それをふたりに近づけさせまいと、花で|防御壁《ぼうぎょへき》を張った。 それぞれの持ち場を理解している彼らは、互いに|死角《しかく》を|補《おぎな》っている──「|小猫《シャオマオ》、あまり私から離れないでね?」 子供の細腰を抱き、楽しそうに話しかけた。戦闘中であることを忘れてしまいそうな笑顔を浮かべながら、余裕然と灰の|渦《うず》を|消滅《しょうめつ》させていく。 その強さたるや。すぐそばには、剣を使って灰の|渦《うず》を|薙《な》ぎ払っている|黄 沐阳《コウ ムーヤン》がいた。そんな彼の攻撃が赤子と思えてしまうほど、|全 思風《チュアン スーファン》の動きや強さは別格と|謂《い》える。「……うーん、単純でつまらないね」 切っても切っても|沸《わ》いてくる灰の|渦《うず》を見て、飽きたと呟いた。 瞬間、彼の周囲を|漆黒《しっこく》の|砂塵《さじん》が包む。かと思えば『|潰《つぶ》せ』と、低く口にした。 すると彼の命令に従うように、漆黒のそれは廊下全体を押し|潰《つぶ》していく。この場にいる彼らをのぞき、灰の|渦《うず》だけが|犠牲《ぎせい》となっていった。 しばらくすると灰の|渦《うず》は|塵《ちり》と化し、砂粒のようになって消えていく。「終わったよ|小猫《シャオマオ》、怪我はないかい?」 何ごともなかったかのように、腕の中にいる少年の頬を撫でる。子供は慣れた様子で|頷《うなず》き、お疲れ様と、彼を|労《ねぎら》った。 彼はふふっと優しい笑みとともに、子供の|額《ひたい》に|軽《かろ》やかな口づけを落とす。「
扉を開ければ、そこは真っ暗な部屋となっていた。 部屋に到着するなり、|全 思風《チュアン スーファン》は手に持つ|提灯《ちょうちん》を握り潰す。「──ここから先、|提灯《ちょうちん》の灯りは使えない。|提灯《ちょうちん》だけが見えてしまっている状態だからね。使うとしたら術で作った灯り……おや?」 ふと、視界に|橙《だいだい》色の花が飛んできた。それは何かと周囲を見渡せば、銀の髪を揺らす|華 閻李《ホゥア イェンリー》がいる。|橙《だいだい》色の、|提灯《ちょうちん》のような……少し丸みのある、三角形をした花が浮いていた。「|小猫《シャオマオ》、それは?」 どうやら子供が花の術を使い、灯りとなるものを出現させたようだ。ふわふわ浮くそれは、三人の前でくるくると回る。「|鬼灯《グーニャオ》だよ」「……え? でもそれ、|橙《だいだい》色だよね? 私の知ってる|鬼灯《グーニャオ》は、白い薄皮の中に黄色い身が入ってるやつだけど……」 |金灯《ジンドン》、|金姑娘《ジングゥニャン》、|姑娘儿《グゥニャングル》など。地域によって呼び名は様々だが、共通して言えることは、この|鬼灯《グーニャオ》は果物であるということだった。 それを伝えてみると子供は、ふふっと微笑む。「うん、それは食用の|鬼灯《グーニャオ》だね。どっちも元は、|橙《だいだい》色の|鬼灯《グーニャオ》だよ。それを花として見るか、食べ物にするかの違いかな?」 優しい光を放つ|鬼灯《グーニャオ》は、彼らの周囲を回転しながら浮いていた。「……それで|思《スー》、光はこれでいいとして、これから
合流した|全 思風《チュアン スーファン》が呼び出した少女は、水の妖怪であった。名を|水落鬼《すいらくき》といい、溺れた者たちの念が姿をとったとされる妖怪である。 そんな少女の姿をした妖怪はにっこりと微笑み、三人の前で両手を大きく広げた。瞬間、|全 思風《チュアン スーファン》たちの体に水が降り注ぐ。けれど冷たくはない。むしろ、お湯のように温かかった。 やがて|水落鬼《すいらくき》は水|溜《た》まりへと変わる。同時に、三人の体を薄い|膜《まく》が包んでいた。「|水落鬼《すいらくき》の水は、人間の視界から見えなくする力があるんだ。最低一日はもつから、その間にやれる事をしてしまおうか」 淡々と語り、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の小さな手を握る。鼻歌を|披露《ひろう》しながら余裕のある顔で広場を横切った。 その|際《さい》、|華 閻李《ホゥア イェンリー》と|黄 沐阳《コウ ムーヤン》のふたりは、見つかるのではとおっかなびっくり。けれど|水落鬼《すいらくき》の水の|膜《まく》が作用し、兵たちの前を通っても武器すら向けられることはなかった。 そのことにふたりはホッとする。「|思《スー》、地下通路に行くのはわかったけど、どうして|廃屋《はいおく》の裏手なの?」 他にはないのと、純粋な眼差しで|尋《たず》ねた。「聞いた話だと、この町はあちこちに地下通路があるらしい。だけど中から鍵がかかってるらしくてね。唯一外から入れるのは、|廃屋《はいおく》の裏手にあるやつだけなんだってさ」 広場にある細道を抜け、何度か曲がる。数分後には、|廃屋《はいおく》のある地区に到着していた。 |廃屋《はいおく》の裏手へと向かえば、河がある。河の近くには|崖《がけ》があり、そこにひとつの穴があった。一見すると洞窟のようなそこには、地下へと続く階段が見える。 |全 思風《チュアン ス
|黄 沐阳《コウ ムーヤン》を説得した|華 閻李《ホゥア イェンリー》は、彼とともに広場の裏手へと向かった。 そこは野良猫や|鼠《ねずみ》などが|徘徊《はいかい》し、お世辞にもきれいとは言い難い場所である。それでも彼らはここを選び、ふたりで兵たちを観察した。「──|爸爸《パパ》たちはここから見える、あの建物の中にいるはずだ」 |黄 沐阳《コウ ムーヤン》は、広場の先にある大きな建物を指差す。 柱や壁は|朱《あか》い、二階建ての建造物だ。屋根の角は|尖《とが》っており、どことなく独特な雰囲気がある。その建物の前には寺があり、角度によっては後ろの景色を隠してしまっていた。 「あの変わった形の屋根の建物、あそこに|爸爸《パパ》たちが住んでるって話だ」 ただなあと、困った様子で肩を落とす。「建物の|警備《けいび》が|厳重《げんじゅう》で、中には入れねーんだ」「……屋根の上からとか、窓から|侵入《しんにゅう》は?」 子供の提案に、彼は首を縦にはふらなかった。言葉を|濁《にご》し、口を|尖《とが》らせている。「──|小猫《シャオマオ》、それは無理だよ」 ドスンっと、突然、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の体が重くなった。原因を調べようと、子供は急いで振り向く。 するとこそには三つ編みの美しい男、|全 思風《チュアン スーファン》がいた。どうやら彼は子供の両肩に全身を預けているよう。子供が重いと言っても、一向に|退《ど》く素振りを見せなかった。甘えるように少年の腰を後ろから包み、|薫《かお》りを|堪能《たんのう》している。 そんな彼の|唐突《とうとつ》すぎる登場に、|黄 沐阳《
突然、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は口を|塞《ふさ》がれ、薄暗い場所へと引きずりこまれてしまった。 子供は何が起きたのかわからず、ひたすら|踠《もが》く。口を押さえている誰かの手にガブッと噛みついた。「いってぇ! こいつ、噛みやがった!」 かん高くはない声を聞き振り返る。そこにはある男の姿が目に映り、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の目は大きく見開かれた。「な、何であんたがここに……!? |黄 沐阳《コウ ムーヤン》!」 |外壁《がいへき》に背をつけ、男から距離をとる。 ──さっきまで|櫓《やぐら》のところにいたはずなのに。何でここに……というか、何で僕がいることに気づいたんだ!? ガタガタと全身が震えた。 かつて|黄 沐阳《コウ ムーヤン》に|襲《おそ》われ、|黄《コウ》家を追い出されてしまった。その際、子供は恐怖を味わった。追い出されたことへの恐怖ではない。|襲《おそ》われ、全てを|喪《うしな》うということへの恐れである。 そのことが|華 閻李《ホゥア イェンリー》の心の中にずっと|棘《とげ》を刺していた。 原因は全て、|眼前《がんぜん》にいる男──|黄 沐阳《コウ ムーヤン》──である。「……ふんっ!」 彼は反省をしているのか、それともいないのか。どちらともとれる姿勢でそっぽを向いた。しかしすぐに|華 閻李《ホゥア イェンリー》を|注視《ちゅうし》し、盛大なため息をつく。 めんどくさそうに頭を|搔《か》き、軽く舌打ちをした。「…………」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は|警戒《けいかい》を緩めない。ジリジリと彼から離れ、大きな目で|睨《にら》んだ。 「何で、何で戦争なんかに参加して……」「俺はしてねぇーよ!」 |怒号《どごう》ではあったが、声は大きくない。むしろ控えめで、何かから隠れているような。そんな雰囲気があった。顔を下へと向かせ、両手を震わせていた。 「|爸爸《パパ》がこんな戦争に参加するなんて、おかしいんだ。俺は止めようとしたのに、|爸爸《パパ》は聞いてくれねえー」 顔を上げる。泣いてはいないが、瞳が|潤《うる》む様子が見てとれた。|華 閻李《ホゥア イェンリー》へと視線を向けたまま、指先だけを広場へと走らせる。 そこには笑顔を振り|撒《ま》く|黄 茗泽《コウ ミャンゼァ》がいた。そして隣には……
「──へえ、あの男が|黄 沐阳《コウ ムーヤン》なんだ」 |全 思風《チュアン スーファン》の声はいつになく低い。瞳の色は|焔《ほのお》のような|朱《あか》にまみれていた。 一緒に隠れている子供を後ろから軽く抱きしめる。あの男殺そうかと、|物騒《ぶっそう》な相談を持ちかけては、|華 閻李《ホゥア イェンリー》に注意された。「もう、|思《スー》ってば! ……それよりも、どうしてあの二人がここにいるんだろう?」 率先して兵たちを|煽《あお》り、まるで戦争をするように仕向けているかのよう。兵たちも彼らを神のように|崇《あが》め、|血気盛《けっきさか》んになっていた。|先刻《せんこく》までの、のんびりとした空気などない。あるのはビリビリとした、戦場にも似たものだけだった。 子供は彼から視線を外し、|櫓《やぐら》にいる男たちを見つめる。彼らは親子というだけあり、背格好や顔立ちがよく似ていた。「……でも、おかしいなあ」「ん? 何がおかしいんだい? あ、もしかしてこの体勢かな!? だったら、|小猫《シャオマオ》を横抱きにし……」「黙ってなさい」「……はい」 明後日の方向にしか行かない彼の口は|華 閻李《ホゥア イェンリー》によって、言葉で|塞《ふさ》がれてしまう。そのことに多少の不満があり、子供っぽく頬を|膨《ふく》らませた。 ──まあ、いいか。この一件が終わったら、たっぷりと|小猫《シャオマオ》を抱きしめる予定だし。 少年の美しい銀髪を|眺《なが》めながら、ふふっと心の中で笑った。 「……それで|小猫《シャオマオ》、何が